古語から現代語へ:ハ行転呼を含む単語の具体的な音変化ステップを追う
はじめに
私たちが普段話している日本語の音は、長い歴史の中で絶えず変化を遂げてきました。特に古い時代の日本語の発音は、現代の私たちには想像もつかないような響きを持っていました。その歴史的な音変化の中でも、日本語の音韻史において非常に重要な位置を占めるのが、ハ行子音の変遷です。
この記事では、このハ行子音の変遷、特に「ハ行転呼」と呼ばれる現象に焦点を当てます。抽象的な法則を説明するだけでなく、具体的な単語がどのように音を変化させて現代の形になったのかを、ステップを追って詳細に解説します。単語の音の歴史を紐解くことで、音声変化という現象が単なる理論ではなく、生きた言語のダイナミズムであることを追体験していただければ幸いです。
ハ行子音の歴史的な変遷の概要
日本語のハ行子音は、時代と共にその発音を大きく変化させてきました。そのおおまかな流れは以下のようになります。
- 上代(奈良時代頃まで): ハ行子音は /p/ であったと考えられています。例えば、「花」は /*pana/ のように発音されていたと推定されています。
- 中古(平安時代頃): /p/ は有声子音に挟まれる位置で /b/ に変化しました(これをハ行子音の濁音化と呼びます)。また、その他の位置では /ɸ/ (唇歯摩擦音、現代の
f
のような音ですが、上下の唇を使って発音する両唇摩擦音とされることもあります)に変化しました。例:「はな」/ɸana/、「あはれ」/aɸare/。 - 中世(鎌倉・室町時代頃): 母音間の /ɸ/ はさらに弱化し、 /w/ (両唇接近音、現代の
わ
の子音のような音)に変化しました。この変化をハ行転呼と呼びます。例:「あはれ」/aɸare/ → /aware/。語頭の /ɸ/ はそのまま維持されるか、後に /h/ に変化しました。 - 近世以降(江戸時代頃から): 母音間の /w/ は、特定の母音(特にア段以外の母音)の前で脱落しました。これにより、母音連続や長母音、二重母音などが生じました。例:「あう」(会う)/awu/ → /au/ → /oː/(現代「あおう」)、これは少し複雑なので後述の単語例で詳しく見ます。語頭の /ɸ/ は /h/ (声門摩擦音、現代の
は
の子音)に変化しました。
このように、ハ行子音は /p/ > /ɸ/ > /w/ > 脱落または /h/ という複雑な変遷をたどってきました。次に、これらの変化が具体的な単語にどのように現れているのかを見ていきましょう。
具体的な単語例に見る音変化のステップ
いくつかの代表的な単語を取り上げ、その音の歴史を追体験します。
例1:「かわる」(変わる)
この単語の変遷は、母音間の /ɸ/ が /w/ に変化する典型的な例です。
- 上代(推定): /*kapaɾu/ (カパル)
- ハ行子音は /p/ でした。
- 中古: /kaɸaru/ (カハル)
- 子音 /p/ が /ɸ/ に変化しました。母音 /a/ と /a/ に挟まれています。
- 中世: /kawaɾu/ (カハル → カワル)
- 母音間の /ɸ/ が /w/ に変化しました。これがハ行転呼です。この時代の発音は「カワル」に近かったと考えられます。
- 近世以降・現代: /kawaɾu/ (かわる)
- 発音としては中世から大きく変化していません。現代の仮名遣い「かわる」は、この時代の発音を比較的反映しています。
例2:「あおぐ」(扇ぐ)
この単語は、母音間の /ɸ/ が /w/ を経て脱落する過程を含んでいます。
- 上代(推定): /*apaᵑɡu/ (アパング)
- ハ行子音は /p/ でした。「扇ぐ」の語源は「あふぐ」とされます。
- 中古: /aɸuᵑɡu/ (アフング)
- 子音 /p/ が /ɸ/ に変化しました。母音 /a/ と /u/ に挟まれています。
- 中世: /awuᵑɡu/ (アウング)
- 母音間の /ɸ/ が /w/ に変化しました(ハ行転呼)。発音は「アウング」に近くなりました。この段階で仮名遣いが「あふぐ」のままだったとしても、発音は既に変わっています。
- 近世以降・現代: /aoɡu/ (アオグ)
- 母音間の /w/ が、後続の母音 /u/ の前で脱落しました。これにより母音連続 /au/ が生じます。日本語では /au/ という母音連続が /oː/ や /o/ に変化する傾向があります(連母音変化)。「あうぐ」の /au/ は、歴史的に /o/ に近い発音に変化しました。現代の仮名遣いはこの発音変化を反映して「あおぐ」となっています。
例3:「ちょう」(蝶)
この単語の変遷はより複雑で、ハ行転呼とそれに続く連母音変化、さらには口蓋化も関わっています。
- 中古: /teɸu/ (テフ)
- ハ行子音は /ɸ/ でした。母音 /e/ と /u/ に挟まれています。
- 中世: /tewu/ (テウ)
- 母音間の /ɸ/ が /w/ に変化しました(ハ行転呼)。発音は「テウ」に近くなりました。
- 中世後期〜近世: /tjoː/ (チョウ)
- 母音連続 /eu/ あるいは /ewu/ が、複合的な母音変化を経て /joː/ に変化しました。この変化の正確なステップは研究者によって見解が分かれることもありますが、一つの説としては /ewu/ → /eu/ (w脱落)→ /joː/ (eとuが接近し二重母音化・長音化)。現代の仮名遣い「ちょう」は、この音変化の最終的な形を反映しています。
- この変化と並行して、子音 /t/ は後続の /j/ の影響を受けて /t͡ɕ/ (チ)に変化しました(口蓋化)。「て」の音が「ち」に変わったのも、この連母音変化と関連しています。
- 現代: /t͡ɕoː/ (チョウ)
- 現代の発音です。漢字「蝶」の音読み「チョウ」もこの音変化を経て定着したものです。
例4:「こい」(恋)
この単語は、母音間の /ɸ/ が /w/ を経て完全に脱落した例です。
- 上代(推定): /*kopi/ (コピ)
- ハ行子音は /p/ でした。
- 中古: /koɸi/ (コヒ)
- 子音 /p/ が /ɸ/ に変化しました。母音 /o/ と /i/ に挟まれています。
- 中世: /kowi/ (コヰ)
- 母音間の /ɸ/ が /w/ に変化しました(ハ行転呼)。発音は「コヰ」に近くなりました。
- 近世以降・現代: /koi/ (コイ)
- 母音間の /w/ が、後続の母音 /i/ の前で脱落しました。これにより母音連続 /oi/ が生じます。現代の発音は「コイ」であり、仮名遣いもそれに合わせて「こい」となりました。
例5:「まいる」(参る)
これはハ行子音の変遷ではありませんが、古語に多く見られたワ行イ段・エ段の音が失われた例として、ハ行転呼と類似した母音間子音の脱落の理解に役立ちます。
- 上代〜中古: /mawiru/ (マヰル)
- 「ゐ」の子音は /w/ でした。母音 /a/ と /i/ に挟まれています。
- 中世以降・現代: /maiɾu/ (マイル)
- 母音間の /w/ が、後続の母音 /i/ の前で脱落しました。これにより母音連続 /ai/ が生じます。現代の発音は「マイル」であり、仮名遣いもそれに合わせて「まいる」となりました。
なぜ音が変化するのか?
これらの単語に見られる音変化は、単なる偶然ではなく、調音の便宜や音韻体系の圧力といったメカニズムに基づいています。
- 調音の便宜(Ease of Articulation): 母音に挟まれた子音は、発音する際に調音器官の動きが大きくなるため、弱化したり脱落したりする傾向があります。/p/ > /ɸ/ > /w/ > 脱落という流れは、調音努力が次第に減少していくプロセスと解釈できます。/ɸ/ や /w/ は、破裂音 /p/ に比べて持続時間が長く、母音への移行が滑らかであるため、母音間に生じやすかったと考えられます。さらに、母音に挟まれた /w/ は、特に後続が狭母音(/i/, /u/)の場合に、母音との区別が曖昧になりやすく、最終的に脱落に至ったと考えられます。
- 音韻体系の圧力: 特定の音環境で共通の変化が生じるのは、単語ごとにバラバラに変化するのではなく、言語全体の音のシステム(音韻体系)がある種の傾向や規則を持っているためです。例えば、母音間の /w/ 脱落は「まゐる」だけでなく、「けふ」(今日、/kjoː/)、「いふ」(言う、/juː/)など、多くの単語に見られる現象です。
これらのメカニズムが複合的に作用し、単語の音は長い時間をかけて現在の形に落ち着きました。
まとめ
この記事では、日本語の歴史的な音変化の中でも特に象徴的なハ行転呼を含む現象を、具体的な単語の音の変遷を追うことで解説しました。「かわる」「あおぐ」「ちょう」「こい」「まいる」といった身近な単語一つ一つに、上代から現代に至る音の変遷のドラマが刻まれていることがお分かりいただけたかと思います。
単語の音の歴史を追体験することは、音声変化という抽象的な法則を具体的に理解するだけでなく、現代の日本語の音や仮名遣いがどのようにして生まれたのかを知る手がかりにもなります。例えば、現代の仮名遣いと発音のずれ(例:「歴史的仮名遣い」における「てふ」と「ちょう」)は、しばしばこのような歴史的な音変化の結果として生じています。
言語は生きており、常に変化しています。過去の音変化の足跡をたどることは、現代の音の仕組みをより深く理解するための、そして言語そのものの面白さを再発見するための豊かな機会となるでしょう。