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なぜ「っ」だけでなく「ん」も増える? 複合語・漢字音に見る撥音化のメカニズムを単語例で追う

Tags: 音声変化, 撥音化, 音韻論, 日本語, 複合語, 漢字音

はじめに:言葉の中に潜む「ん」の不思議

日本語の単語、特に複数の漢字を組み合わせた熟語を考えてみてください。「学校(がっこう)」には小さな「っ」が入りますが、「新聞(しんぶん)」には「ん」が入ります。どちらも、元の漢字一字の読み(例:「学(がく)」、「校(こう)」、「新(しん)」、「聞(ぶん)」)にはなかったはずの音が付加されているように見えます。

小さな「っ」が入る現象は「促音化」として知られていますが、「ん」が入る現象もまた、特定の音環境や歴史的な経緯を経て生じる音声変化であり、「撥音化」と呼ばれます。これは促音化と同様に、日本語の音韻構造や複合語の成立において重要な役割を果たしてきました。

本稿では、この「撥音化」に焦点を当て、それがどのようなメカニズムで起こるのか、特に漢語系複合語や漢字音における具体的な例を挙げながら、その法則性を探求します。

撥音化とは

撥音化(はつおんか, Nativization of a nasal coda)とは、特定の音環境において、本来そこに存在しなかった撥音 /N/ (「ん」の音)が生じる、あるいは他の音が撥音へと変化する現象を指します。

促音化が、特定の音環境で子音の重複(長子音)が生じる現象であるのに対し、撥音化は鼻音である撥音 /N/ が出現する点が異なります。これらの現象は、特に複合語、中でも中国語から借用された漢字を用いた熟語(漢語系複合語)の形成過程で頻繁に観察されます。

漢語系複合語における撥音化のメカニズム

漢語系複合語の形成において、撥音化は主に二つのメカニズムによって説明されます。一つは、後続する音との関係で、先行要素の末尾に撥音が生じる場合。もう一つは、歴史的な経緯で、中国語の音節末子音(特に入声など)が日本語に取り込まれる際に撥音として処理された場合です。現代日本語の漢語音読みは、多くが中国の中古音に由来しており、この過程で様々な音声変化が生じました。

ここでは、現代日本語の熟語に見られる撥音化を、具体的な単語例とともに追ってみましょう。

1. 後続する子音との関係による撥音の挿入・変化

漢語系複合語では、先行する漢字の音読みの後に、特定の子音で始まる後続漢字の音読みが続く場合に、先行音と後続音の間に撥音 /N/ が現れる、あるいは先行音が撥音 /N/ へと変化することがあります。これは、後続子音との調音の便宜を図るための同化現象の一種と捉えることができます。特に、破裂音や摩擦音、鼻音などが後続する場合に撥音化が生じやすい傾向があります。

例1:金銭(きんせん)

この例では、「金」の音読み「キン」がそのまま使われているように見えますが、これは現代の慣用的な読みです。歴史的には「金」の音節末子音 -m-n (中国語中古音では kīm, ŋīm, ki̯en など)が、日本語に取り込まれた際に撥音 /N/ となりました。そして、「銭」の頭子音 /s/ の前で、先行する音(ここでは「金」の音節)の最後に撥音 /N/ が維持・挿入される形で「きんせん」となります。ここで重要なのは、先行要素の音節末が撥音 /N/ で終わっており、後続要素の頭子音が破擦音や摩擦音、鼻音などの場合に、この撥音 /N/ が維持される傾向にあることです。

例2:銀行(ぎんこう)

これも「金銭」と同様、「銀」の音読み「ギン」に含まれる撥音 /N/ が、後続する「行」の頭子音 /k/ の前で維持されています。後続音が破裂音 /k/, /t/, /p/ の場合、多くは先行音の末尾が撥音 /N/ となるか、あるいは促音化します。

例3:案内(あんない)

「案」の音読み「アン」の撥音 /N/ が、後続する「内」の頭子音 /n/ の前で維持されています。後続音が鼻音 /m/, /n/ の場合も、先行音末尾の撥音 /N/ は維持されるか、あるいは後続音に調音点同化することがあります(例: 神門 しんもん /shiNmoN/ → [ʃimmoɴ] のように、撥音 /N/ が後続の /m/ に同化して両唇鼻音 [m] となる)。

このように、複合語において、特に後続要素の頭子音が破裂音、摩擦音、破擦音、鼻音などの場合に、先行要素の末尾が撥音 /N/ となる現象が多く見られます。これは、先行音と後続音の間に一つの拍を挿入し、音節構造を安定させる(日本語は一般に開音節を好むため、閉音節のような状態を緩和する)とともに、後続子音の調音点に近い撥音を置くことで発音の移行をスムーズにする効果があると考えられます。

2. 歴史的な漢語借用の過程における撥音化

日本語の漢語音読みの多くは、中国の隋・唐代などの音を基礎としていますが、日本語の音韻体系に適合させる過程で大きな変化を遂げました。特に、中国語の音節末子音を持つ音節(例: -m, -n, -ŋ, -p, -t, -k など)は、日本語には音節末子音が存在しないため、様々な形で処理されました。このうち、-m, -n, -ŋ といった鼻音で終わる音節は、日本語では撥音 /N/ として取り込まれるケースが多く見られました。また、破裂音で終わる入声(-p, -t, -k)も、日本語に取り込まれる際に母音が添加されたり、撥音や促音として処理されたりしました。

例:金(キン)、銀(ギン)、新(シン)、本(ホン)、文(ブン)

これらの漢字の音読み「キン」「ギン」「シン」「ホン」「ブン」は、いずれも撥音 /N/ で終わっています。これらは、中国語の古い音節末鼻音(例: 金 kim, 銀 ŋin, 新 sin, 本 puən, 文 mʉn など)が、日本語の音韻体系に取り込まれる際に撥音 /N/ となった痕跡です。

これらの撥音で終わる音読みを持つ漢字が他の漢字と複合する場合、上述したように、後続する音によってはこの撥音 /N/ が維持されたり、特定の音変化を引き起こしたりします。

このように、漢字の音読み自体に既に撥音が含まれており、それが複合語の中でも特定の環境で維持されることで「撥音化」したように見えるケースは多いのです。これは、単に音が「挿入」されたというよりも、歴史的な音変化の結果として撥音が付与され、それが現代語に引き継がれている側面が強いと言えます。

撥音化と促音化の対比

撥音化と促音化は、どちらも複合語形成などで特定の音環境に一つの拍が加わる(ように見える)現象ですが、出現する音と環境に違いがあります。

同じ後続音の前でも、先行要素の音韻構造や歴史的経緯によって撥音化するか促音化するかが決まります。例えば、後続音が /k/ の場合、「金庫」(キン+コ → きんこ、撥音化)と「学校」(ガク+コウ → がっこう、促音化)のように結果が異なります。これは、「金」の古い音の末尾が鼻音系であったこと、「学」の古い音の末尾が破裂音系であったことなどが影響していると考えられます。

結論:撥音化が示す日本語の音の仕組み

撥音化は、単に「ん」という音が増える表面的な現象ではなく、日本語が外国語(特に中国語)の音をどのように自らの音韻体系に適合させてきたか、また、複合語を形成する際に音と音の衝突をどのように解消し、発音の便宜を図ってきたかを示す興味深い音声変化です。

漢語系複合語における撥音化は、歴史的な音節末子音の処理と、現代的な調音の便宜という二つの側面から理解することができます。撥音 /N/ は、後続する子音との調音点同化を起こしやすいため(例: 「新聞」の /N/ は後続の /b/ の影響で両唇鼻音 [m] に近く発音されることが多い)、様々な子音の前で緩衝材のような役割を果たしているとも言えます。

撥音化の法則を具体的な単語例を通して追体験することで、私たちは普段何気なく発音している言葉の音の中に、遥か昔からの歴史や、発音をスムーズに行うための論理的な仕組みが息づいていることを改めて認識することができるでしょう。このような音声変化の理解は、単語の成り立ちや日本語全体の音韻構造に対する洞察を深めることに繋がります。