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エ段・オ段母音の音変化:イ段・ウ段母音との合流プロセスを単語例で追う

Tags: 母音変化, 歴史言語学, 音声学, 音韻論, 日本語史, 仮名遣い, 中古日本語

はじめに

現代日本語には、「あ」「い」「う」「え」「お」の5つの母音があります。これは、日本語の音韻体系の基本的な要素であり、私たちは日常的にこれらの音を使い分けています。しかし、日本語の歴史を遡ると、現代とは異なる母音体系が存在し、時代を経て特定の母音が別の母音と区別されなくなり、合流していったという興味深い変化が見られます。

この記事では、特に歴史的な日本語において区別されていたエ段・オ段の母音が、イ段・ウ段の母音と合流していったプロセスに焦点を当て、具体的な単語例を通してこの音声変化のメカニズムを追体験します。なぜこのような変化が起きたのか、それが現代日本語にどう繋がるのかを探ることで、日本語の音韻体系の理解を深めることができるでしょう。

歴史的な日本語の母音体系

現代日本語の母音体系は5つですが、奈良時代(上代)には8つの母音が存在したとする説が有力視されています。これは、同じ子音の後ろにつく母音でも、甲類と乙類という2種類の「い」「え」「お」「う」が区別されていたという、上代特殊仮名遣いに基づくものです。

| 段 | 上代甲類 | 上代乙類 | 現代日本語 | | :---- | :------- | :------- | :--------- | | ア段 | ア [a] | | ア [a] | | イ段 | イ [i] | イ [i] | イ [i] | | ウ段 | ウ [u] | ウ [u] | ウ [u] | | エ段 | エ [e] | エ [e] | エ [e] | | オ段 | オ [o] | オ [o] | オ [o] |

例えば、「キ」には甲類と乙類があり、それぞれ異なる発音だったと考えられています。この上代の8母音体系は、平安時代(中古)に入ると徐々に単純化が進み、やがて現代のような5母音体系へと変化していきました。特に、甲類と乙類の区別が失われる中で、特定の段の母音同士が音価を接近させ、あるいは合流していったのです。

エ段母音の音変化:エとヱの合流

中古日本語の時代には、エ段の母音に少なくとも2種類の発音、すなわち「エ」と「ヱ」の区別があったと考えられています。現代の仮名遣いでは「え」に統一されていますが、歴史的仮名遣いでは「え」と「ゑ」が使い分けられていました。

この「エ」と「ヱ」は、中古の京都の発音においては異なる音価を持っていましたが、室町時代頃からその区別が曖昧になり始め、近世にはほとんどの地域で区別されなくなりました。

具体的な単語例を見てみましょう。

これらの単語に見られる「ヱ」が現代語で全て「え」として発音されるのは、歴史的に /we/ という音が /e/ と合流したためです。音韻論的には、/w/ という子音の後ろに母音が付く場合にのみ現れていた /e/ の異音、あるいは独立した音素であった /we/ が、単母音である /e/ に吸収された、あるいは /w/ が脱落したと考えることができます。これは、調音の便宜や音韻体系の単純化といった要因が複合的に作用した結果と考えられます。

また、上代には甲類と乙類の区別があったイ段とエ段の母音も、中古以降に合流が進みました。特に乙類のエ段母音(例: ケ乙類、メ乙類)は、次第にイ段母音に近い音価を持つようになり、一部の語では仮名遣いが混同されることもありました。

オ段母音の音変化:オとヲの合流、ウ段との関係

オ段の母音に関しても、歴史的には「オ」と「ヲ」の区別がありました。上代にはそれぞれ異なる音価(甲類と乙類)を持っていたと考えられていますが、平安時代後期には両者の区別が失われ、中古においては「オ」/o/ と「ヲ」/wo/ の区別が残っていたとする説が有力です。現代の仮名遣いでは「お」に統一されていますが、歴史的仮名遣いでは「お」と「を」が使い分けられていました。

この「ヲ」/wo/ も、室町時代頃から音価が /o/ に近づき始め、近世にはほとんどの地域で「オ」/o/ との区別が失われました。

具体的な単語例を見てみましょう。

これらの単語に見られる「ヲ」が現代語で全て「お」として発音されるのは、エ段の場合と同様に、/wo/ という音が /o/ と合流したためです。これは、多くの場合 /w/ という子音の脱落によって説明されます。

さらに、オ段の母音とウ段の母音の間でも、特定の環境で混同や音価の接近が見られました。特に近世以降、特定の語において「お」と「「う」が交代する現象や、オ段母音とウ段母音が連続した際の音変化が起こりました。

これらの例では、古くはオ段+特定の拍(この場合はウ音便化したウ)の組み合わせが、時代を経て「オ段+ウ段」の連続、さらには長音化へと変化しています。これは単なる母音の合流というよりは、音節構造の変化や他の音声変化(音便、長音化)と複合的に関連した現象です。しかし、「エ」と「イ」、「オ」と「ウ」といった近い調音点を持つ母音同士が、ある環境で音価が接近しやすいという傾向が見られます。特に、円唇後舌母音であるオ段とウ段は、その調音位置の近さから、歴史的に混同や音価の接近が起こりやすいペアでした。

音変化のメカニズムと現代日本語への影響

歴史的な日本語においてエ段母音がイ段母音に、オ段母音がウ段母音に合流する、あるいは音価が接近する背景には、いくつかのメカニズムが考えられます。

  1. 音価の接近: 元々音価が近かった母音ペア(例: 上代乙類「キ」と乙類「ケ」)が、調音の精度が失われるにつれて区別されなくなる。これは、言語が広まるにつれて地域差が生まれ、規範的な発音が崩れるといった社会的な要因も関わることがあります。
  2. 環境による異音化と音素の合流: 特定の音環境(例: /w/ の後)で現れる音が、その環境を失った場合(例: /w/ の脱落)に、より基本的な母音に吸収される(例: /we/ → /e/, /wo/ → /o/)。これにより、音韻的な対立の数が減少します。
  3. 音韻体系の単純化: 音韻的な対立の数が減少し、より経済的で習得しやすい体系へと移行する傾向は、言語変化における普遍的な動機の一つと考えられます。

これらの変化は、日本語の音韻体系が時代とともに単純化・整理されてきたプロセスの一部です。上代の8母音から中古の(少なくとも仮名遣い上は)6種の母音(ア、イ/ヰ、ウ、エ/ヱ、オ/ヲ)、そして現代の5母音へと変化してきました。

このような母音の合流や変化を知ることは、現代日本語の音韻体系がなぜこのような形になっているのかを理解する助けとなります。特に、歴史的仮名遣いや古典文学に触れる際に、現代の発音とは異なる背景があることを認識することで、より深い理解を得ることができます。例えば、「を」と「お」、「ゑ」と「え」の使い分けは、かつて存在した音の区別、そしてそれが失われた歴史を示す名残であると理解できるでしょう。

結論

この記事では、歴史的な日本語におけるエ段・オ段母音が、イ段・ウ段母音と合流していったプロセスを、具体的な単語例を通して解説しました。上代の複雑な母音体系から現代の5母音体系への変化は、単に音が失われたり置き換わったりしただけでなく、音価の接近、環境による異音化、そして音韻体系全体の単純化といった様々な要因が絡み合った結果です。

単語の音を歴史的に追っていくことで、そこに秘められた音の変化の法則や、日本語の音韻体系がたどってきた道のりが見えてきます。このような知識は、言語そのものへの洞察を深めるだけでなく、古文書や古典文学を読む際の理解の手助けにもなります。言葉の音に耳を澄まし、その歴史に思いを馳せることで、現代日本語の音韻体系をより多角的に理解できることでしょう。