日本語のハ行子音の変遷:p音からh音・w音・消失への道のりを単語例で追う
はじめに
現代日本語において、「はひふへほ」の音に含まれる子音は、厳密には一つではありません。「は」「ひ」「へ」「ほ」の子音は声門摩擦音 [h] ですが、「ふ」の子音は両唇摩擦音 [ɸ] です。さらに、助詞としての「は」は [wa]、「へ」は [e]、「を」は [o] と発音され、語中の「あいうえお」に続くワ行の音も、歴史的な経緯から現代の「い」「え」「お」と同音になっている場合があります。これらの現代日本語の音の複雑さ、あるいは不規則に見える点は、日本語の音韻が歴史の中でダイナミックに変化してきたことを示唆しています。
本記事では、特に日本語のハ行子音に焦点を当て、それがかつてどのような音であり、時代を経てどのように変化し、現代の音に至ったのかを、具体的な単語の例を通して詳しく解説します。古い時代の音を追体験することで、現代日本語の仕組みへの理解を深めることができるでしょう。
かつて存在した語頭のp音
現代日本語の「はひふへほ」の音を持つ単語の多くは、古い時代には両唇破裂音である [p] の音を語頭に持っていました。例えば、上代日本語(奈良時代頃)の資料に見られる単語の音を、現代の発音と比較してみましょう。
| 現代の発音 | 現代の表記 | 上代の発音 | 上代の表記 | 備考 | | :--------- | :--------- | :--------- | :--------- | :--------------------------------- | | hasi | はし | papi | ハシ | | | hi | ひ | pi | ヒ | | | hito | ひと | pito | ヒト | | | hune | ふね | pune | フネ | | | hosi | ほし | posi | ホシ | | | he | へ | pe | ヘ | |
このように、「は」「ひ」「ふ」「へ」「ほ」で始まる多くの単語が、上代には [p] 音で始まっていたことがわかります。これは現代日本語からは想像しにくい変化ですが、言語の歴史においては珍しいことではありません。
p音からɸ音への変化:ハ行転呼
上代に存在した語頭の [p] 音は、平安時代中期(およそ10世紀頃)にかけて、両唇摩擦音 [ɸ] へと変化しました。この現象は「ハ行転呼」と呼ばれます。両唇破裂音 [p] は、一度唇を閉じて呼気を破裂させる音であるのに対し、両唇摩擦音 [ɸ] は、唇をわずかに開けて呼気を摩擦させて出す音です。例えば、現代の「フ」の子音がこの [ɸ] にあたります。
この変化は、より調音の労力が少ない摩擦音への移行という、音声変化の一般的な傾向の一つと考えられます。破裂音 [p] を維持するよりも、唇の隙間から息を漏らす [ɸ] の方が、連続する母音とのつながりがスムーズになる、といった調音の便宜が背景にあると推測されます。
ハ行転呼による変化の例を、中古日本語初期(p音時代)から中古日本語後期(ɸ音時代)で見てみましょう。
| 中古初期の発音 | 中古初期の表記 | 中古後期の変化 | 中古後期の表記 | | :------------- | :------------- | :------------- | :------------- | | [papi] | はし | [ɸapi] | はし | | [pito] | ひと | [ɸito] | ひと | | [pune] | ふね | [ɸune] | ふね | | [peko] | へこ | [ɸeko] | へこ | | [posi] | ほし | [ɸosi] | ほし |
この段階では、語頭の [p] が一律に [ɸ] へと変化しました。現代の「フ」の音は、この [ɸ] 音が比較的そのまま残ったものと言えます。
ɸ音からh音・w音・消失への更なる変化
ハ行転呼によって生まれた [ɸ] 音は、さらに時代を下るにつれて変化していきました。この次の変化の段階では、後に続く母音の種類が結果に大きく影響しました。
ア、ウ、オの前の変化
母音 /a/, /u/, /o/ の前に立つ [ɸ] 音は、主に声門摩擦音 [h] へと変化しました。声門摩擦音 [h] は、喉元で呼気をわずかに摩擦させて出す音です。
- /ɸa/ → /ha/
- 例:
ɸana
(花) →hana
[hana] - 例:
ɸasi
(箸) →hasi
[hasi]
- 例:
- /ɸu/ はɸ音を維持
- 例:
ɸune
(舟) →ɸune
[ɸune] (現代もこの音)
- 例:
- /ɸo/ → /ho/
- 例:
ɸosi
(星) →hosi
[hosi]
- 例:
語中においては、母音 /a/, /o/ の前の [ɸ] 音が [w] 音(ワ行の子音)に変化する現象も見られました。
- /aɸa/ → /awa/
- 例:
kaɸa
(川) →kawa
[kawa]
- 例:
- /aɸo/ → /awo/ → /ao/
- 例:
aɸo
(青) →awo
[awo] → 現代ではワ行の音も消滅しao
[ao] と発音される
- 例:
イ、エの前の変化
母音 /i/, /e/ の前に立つ [ɸ] 音は、調音点の関係から少し異なる変化をたどりました。これらの母音は舌の位置が前寄り・上寄りであるため、続く子音もそれに影響されて、硬口蓋摩擦音 [ç](ドイツ語の「ich」のような音)を経由したり、あるいは弱化・消失したりしました。
- /ɸi/ → /çi/ → /hi/
- 中古後期の [ɸi] は、中世末から近世にかけて硬口蓋摩擦音 [ç] に変化し、さらに現代にかけて声門摩擦音 [h] に変化しました。
- 例:
ɸito
(人) →çito
→hito
[hito] - 例:
ɸi
(日) →çi
→hi
[hi]
- /ɸe/ → /he/
- 中古後期の [ɸe] は、比較的早い段階で声門摩擦音 [h] に変化したと考えられます。
- 例:
ɸe
(辺) →he
[he] - 例:
ɸeta
(下手) →heta
[heta]
語中では、母音 /i/, /e/ の前の [ɸ] 音は、多くの場合、完全に弱化して消失し、直前の母音と融合しました。
- /aɸi/ → /ai/
- 例:
naɸi
(無い) →nai
[nai] - 例:
taɸi
(旅) →tabi
[tabi] (この単語はさらに濁音化も起きています)
- 例:
- /eɸe/ → /ee/
- 例:
keɸe
(今日) →keu
[keu] → 長音化してkyoo
[kyoː]
- 例:
- /aɸe/ → /ae/
- 例:
aɸe
(敢え) →ae
[ae]
- 例:
このように、もとは同じ [ɸ] 音であったものが、後に続く母音の環境によって [h], [ɸ], [w], あるいは消失と、多様な結果をもたらしました。現代日本語の「はひふへほ」とワ行、そして一部の母音連続は、この複雑な変化の痕跡と言えます。
現代日本語のハ行とワ行に繋がる歴史
現代日本語の「はひふへほ」の子音は、歴史的な経緯から不均一です。「はひへほ」は [h] ですが、「ふ」は [ɸ] であり、助詞の「は」[wa]、「へ」[e]、そして「を」[o] の発音は、それぞれ語中での [ɸa], [ɸe], [ɸo] が [wa], [we], [wo] を経由して変化した名残と考えられています。
また、現代かなづかいでは使われなくなった「ゐ」「ゑ」も、かつては語中の /pi/, /pe/ などに由来する /wi/, /we/ といった音を持っていました。現代の「い」「え」「お」と同じ音で発音されるワ行の音も、古い時代には明確な子音 [w] を持っていたものが、後に続く母音によって子音が弱化・消失した結果です。
ハ行子音の歴史的変遷を知ることは、現代日本語の音韻体系がどのように成り立っているのか、なぜ規則的でないように見える箇所があるのかを理解する上で非常に有効です。単語の語源を探る手がかりともなり、言語の生きた歴史を肌で感じることができるでしょう。
まとめ
日本語のハ行子音は、上代の [p] 音に始まり、中古には [ɸ] 音へ、さらに中世以降には後に続く母音環境に応じて [h], [ɸ], [w] や消失など、様々な音へと変化してきました。この一連の複雑な音変化は、単語一つ一つの中に歴史的な痕跡として刻まれています。
具体的な単語の音の変遷を追うことで、抽象的な音声変化の法則が、実際の言語においてどのように機能してきたのかを視覚的に理解することができます。このような音の変化の過程を知ることは、現代日本語の構造や規則性をより深く理解するだけでなく、言語というものが常に変化し続ける生きたシステムであるという認識を深めることにも繋がるでしょう。