歴史的仮名遣いに見られる音変化:単語例で追うハ行・ワ行、イ段・エ段の変遷
歴史的仮名遣いと現代仮名遣いの間には、単なる規則の違いを超えた、日本語の音の歴史が刻まれています。私たちは現代仮名遣いで「こうえん」(公園)や「かわ」(川)と書きますが、歴史的仮名遣いではそれぞれ「こうゑん」「かは」と表記されることがありました。これらの違いは、かつて日本語の発音が現在と異なっていたこと、そして時代を経て音が変化してきたことの明確な痕跡です。
ここでは、特に歴史的仮名遣いにおいて顕著な違いが見られる、ハ行とワ行、そしてイ段とエ段の音の変化に焦点を当て、具体的な単語例を通じてそのメカニズムを追っていきます。これらの変化を理解することは、日本語の音韻構造がどのように形成されてきたのかを知るための一歩となります。
ハ行子音の変遷とその表記
現代日本語のハ行子音は、語頭では[h](「は」など)で発音されますが、語中・語末では主に母音間の摩擦音[ɸ](「ふ」を除く)を経て消失したり、他の音と融合したりしています。一方、かつて日本語のハ行子音は、上代(奈良時代頃まで)においては[p]と発音されていたと考えられています。
1. [p]音から[ɸ]音、そして[h]音へ
この[p]音が、平安時代以降、まず唇歯摩擦音[ɸ](現代のフの子音に近いが、唇を強く閉じる破裂音ではなく、隙間から息を出す摩擦音)に変化し、さらに時代が下ると[h](現代のハ行子音)へと変化していったと考えられています。
- 例: 父
titi
→titi
(現代)- かつては語頭の「ち」も[ti]ではなく[t͡si]に近い音だった可能性や、語頭のタ行・ハ行の起源に関する議論もありますが、ここではハ行子音そのものの変遷に焦点を当てます。
2. 語頭以外のハ行のワ行音化(ハ行転呼)
特に注目すべきは、語頭以外のハ行音がワ行の音に変化した現象です。これは平安時代頃から顕著になり、中世以降には広く定着しました。
-
例1: 川
- 上代の発音:
kapa
- 平安時代以降:
kawa
(ハ行転呼が発生) - 歴史的仮名遣い: かは
- 現代仮名遣い: かわ
- この変化は、語中の/p/が摩擦音/ɸ/を経て、母音間の/ɸ/がさらに弱化して/w/となり、最終的に母音と融合して/wa/となった過程を示しています。
- 上代の発音:
-
例2: 恋
- 上代の発音:
kopi
- 平安時代以降:
koi
(ハ行転呼が発生) - 歴史的仮名遣い: こひ
- 現代仮名遣い: こい
- ここでは、語中の/p/が/ɸ/を経て/w/となり、その後の/wi/という二重母音が/i/という単母音に変化したと考えられます。この/wi/から/i/への変化は後述するイ段母音の統合とも関連します。
- 上代の発音:
-
例3: 合う
- 上代の発音:
apu
- 平安時代以降:
au
(ハ行転呼が発生) - 歴史的仮名遣い: あふ
- 現代仮名遣い: あう
- 語中の/p/が/ɸ/を経て/w/となり、その後の/wu/という二重母音が/u/に変化したと考えられます。
- 上代の発音:
-
例4: 上
- 上代の発音:
upe
- 平安時代以降:
uwe
→ue
(ハ行転呼が発生し、さらに/we/が/e/に変化) - 歴史的仮名遣い: うへ
- 現代仮名遣い: うえ
- 語中の/p/が/ɸ/を経て/w/となり、その後の/we/という二重母音が/e/に変化したと考えられます。
- 上代の発音:
歴史的仮名遣いの「かは」「こひ」「あふ」「うへ」「をち」(遠い場所を指す古語、もと「をち(居チ)」で「そこに居る」意が転じたとも)といった表記は、これらの単語がかつてハ行の音で発音されていた時代の名残を示しているのです。語頭の「は」「ひ」「ふ」「へ」「ほ」が現代でもハ行の音で発音されることが多いのに対し、語中・語末でワ行や母音の音になるのは、語頭とそれ以外の位置で異なる音変化が起きたためです。
イ段・エ段母音の統合
もう一つの重要な音声変化は、イ段とエ段の母音に見られます。上代日本語には、現代語にはない母音の区別があったと考えられています。特にイ段とエ段にはそれぞれ二種類の母音(甲類と乙類と呼ばれる)が存在したとされ、仮名遣いでも「き(甲)」「き(乙)」のように書き分けられていました(万葉仮名における漢字の使い分けから推測されています)。
- 例: 来(く)の甲類「き」、木(き)の乙類「き」
- かつては発音が区別されていたと考えられますが、現代語では同じ「き」の発音です。
これらの甲乙の区別は平安時代以降に次第に失われ、現代語では区別がありません。さらに、ワ行の子音と結びついていた「ゐ」(wi)と「ゑ」(we)が、それぞれイ段の「い」(i)、エ段の「え」(e)と合流しました。
-
例1: ゐる(居る)
- かつての発音:
wiru
- 鎌倉時代頃から:
iru
に近い発音へ(ワ行子音の消失) - 歴史的仮名遣い: ゐる
- 現代仮名遣い: いる
- ワ行の子音/w/が母音/i/の前で弱化・消失し、/wi/という音節が/i/という音節に変化したと考えられます。
- かつての発音:
-
例2: こゑ(声)
- かつての発音:
kowe
- 鎌倉時代頃から:
koe
に近い発音へ(ワ行子音の消失) - 歴史的仮名遣い: こゑ
- 現代仮名遣い: こえ
- ワ行の子音/w/が母音/e/の前で弱化・消失し、/we/という音節が/e/という音節に変化したと考えられます。
- かつての発音:
「を」(wo)については、助詞として使われる場合は中世以降には「お」(o)と同じ発音になったと考えられていますが、現代仮名遣いでは助詞の場合に限り「を」の表記が残されています(これは発音の変化ではなく、表記の慣習が残った例と言えます)。動詞「織る(woru)」など、語幹に「を」を持つ動詞もかつては存在しましたが、現代では使われなくなっています。
歴史的仮名遣いの「ゐ」「ゑ」は、これらの音がかつて存在し、現代の「い」「え」とは区別されていた時代の痕跡なのです。ワ行の子音は母音/a/(「わ」)の前では比較的安定して残りましたが、/i/や/e/、/u/の前では弱化・消失しやすい傾向がありました。
まとめ
歴史的仮名遣いに見られるハ行とワ行、イ段とエ段の違いは、単なる表記のルールではなく、日本語の音韻体系が長い時間をかけて変化してきた結果です。ハ行子音の[p]から[h]への変化や語頭以外のワ行化(ハ行転呼)、そして「ゐ」「ゑ」が「い」「え」と合流したことは、調音の便宜(より楽な発音への移行)や音韻体系の単純化など、様々な要因が複合的に関わって起こった音声変化です。
これらの変化を具体的な単語例を通じて追体験することは、現代日本語の発音や表記の背後にある歴史を理解する上で非常に有効です。単語一つ一つに、言葉の音のたどってきた道のりが刻まれていることを知ることは、言語というシステムの動態性とその面白さを改めて感じさせてくれるでしょう。歴史的仮名遣いは、過去の音が現代に語りかける声なきメッセージと言えるのかもしれません。